星の降る天  
 
夏のある夜の事だ。
友人と、近所の夏祭りに行った帰りであった。一人、薄闇の中を歩いてゐると、妙な子供と出会った。
「何をしてゐるのさ。こんな処で」
子供は応えた。
「星を見ているのさ。」
子供は、ぼうっと白く光っているようだった。とても美しかった。
「僕は天邪鬼。君の名は。」
「星河、夏彦。」
子供は夏彦に微笑んだ。
「良い名を貰ったな、人間。」
そう云うと、子供は闇の中へ消えた。
これが子供と夏彦の最初の出会いである。
 
 
夏彦の住む村は、山間にある長閑な処だ。昔乍らの木造建築が並んでいる、見渡せば田畑しか無い様な農村地帯である。
夏彦は縁側で洋盃ぐらすに入った曽達そーだ水を飲んでゐた。今は夏の長期休暇で、何処に行く予定も無く、一日一日をだらだらと過ごしてゐた。
「夏彦、宿題をしておきなさい。」
遠くから母の声がして、夏彦は曽達水の入った瓶と洋盃を持って自室に入った。
彼の部屋は二階に在る。窓を開けると涼しい風が吹き抜けた。
夏彦は机に肘をついて、夏祭りの帰りの事を考えた。
随分と綺麗な子供だった。まるで此の世の物では無いかの様に、子供が立ってゐる処が切り取られてゐた。
子供は旧い甚兵衛を着ていた。薄い、透き徹った水色であった。短く切った黒髪も、緑を一滴垂らしたような深い色合いで、非の打ち処が無い。
其の子は印象的で、夏彦は鮮明に思い出す事が出来た。口調も中々特徴的であった。其処迄考えて、夏彦はやっと、子供の名前を思い出した。
―――天邪鬼。
天邪鬼と云うのは昔話に出てくる鬼で、人に逆らい、人の邪魔をする悪い妖怪だ。本当にあの子供は鬼なのだろうか。夏彦はもう一度逢って慥(たし)かめようと思った。
夜迄は長い、未だ昼下がりの事だった。
 
 
夕飯を済ませ、夏彦は母親のゐる台所へ顔を出した。
「母さん、俺、地学の宿題が出てゐるんだ。星を観ても良いかい。」
「そう、行ってらっしゃい。」
夏彦は、懐中電灯を持って家を出た。半袖の襯衣(シャツ)では少し寒いくらい、涼しい夜であった。
近くに落ちてゐた石塊(いしころ)を蹴りながら、細い小径を歩いて行くと、同じ処に其の子がゐた。其の子はあの日と同じ甚平を着て、ぼうっと白く光ってゐた。
「今晩は。何をしてゐるの。」
子供は驚いて、きっと夏彦を睨め付けたが、直ぐに笑顔に成った。
「何だ、君か。星を見ているのさ。」
そう云って子供は空を見上げた。夏彦も空を見ると、天の川が濃紺の画布に煌煌と描かれて静止してゐた。
「君こそ、何をしに来たのさ。」
子供は夏彦を振り返った。ちょこんと小首を傾げる姿は、子供と云うより少女の様な可憐さが在った。
此の子は少女なのだと、夏彦は確信した。
「君に逢いに来た。」
天邪鬼は、真っ赤になって、また天を仰いだ。
「君は天邪鬼と云ったね。本当にそうなのかい。」
「若(も)し仮にそうだとしたら、僕を嫌うだろう、人間。」
天邪鬼は嗤った。其の眼は哀しそうだった。
「そんな事は無いさ。俺は君を嫌いやしないよ。」
夏彦は出来る限り明るく振る舞った。喩え天邪鬼が此の世には在り得ない生き物だったとしても、其処に彼女を忌み嫌う理由は見当たらなかった。
「君に名前は無いの。」
「僕の名前は天邪鬼さ、と云った筈だよ。」
「違うよ、そうぢゃ無い。姓名があるか、って事だよ。」
天邪鬼はまた嗤った。近くの草原が夜風に吹かれてざわめいた。
「僕に姓名が在るかだって、君は面白いね。」
散々に嗤った後、天邪鬼は月を見て、帰らなくちゃ、と云った。
「天邪鬼、また、逢えるかい。」
夏彦が問うと、天邪鬼はひらりと蝶のように宙返りをして「勿論(もちろん)。」と云った。
「君、気に入ったよ。夏彦と云うんだね。覚えておこう。」
ひょこひょこと跳ねながら、天邪鬼は森へと帰っていった。彼女が先程まで見てゐた空を仰ぎ、夏彦も家路についた。
 
 
それから夏彦は、毎晩天邪鬼に逢いに云った。彼女は夏彦に何でも話した。夏彦も、彼女に学校のことや友人のことを楽しく話した。
ただ、天邪鬼はあくまで男の子の振りをしていた。
「何故、君は『僕』と云うんだい。」
天邪鬼は首を傾げた。
「如何して、そんな事を聞くのかい。」
夏彦はうん、と考えた。女の子が「僕」と云ってはいけない訳ではない。
「君は、『私』と云った方がうんと可愛くなるよ。」
「男に可愛いは可笑しいぢゃないか。」
天邪鬼はくすくすと笑った。夏彦はその表情にときめいた。
「君は、俺に嘘を吐くね。」
風がさらさらと髪を梳く。夏彦は、近くの草原に寝転がった。天邪鬼はその隣に座って、哀しそうに笑って云った。
「そうだね、僕は……天邪鬼だもの。」
二人はしばらく黙って星を観てゐた。天の川はいつもの様に美しく輝いてゐた。
「もう……帰らなくちゃ。」
そう云って、天邪鬼がぴょんと立ち上がった。そうして、また明日、とだけ云って逃げるように去っていった。
天邪鬼はいつも素直だ。人間が思ってゐる様な妖怪とはまるで違う。帰りながら、夏彦は、彼女の事を思った。
天邪鬼が吐いた嘘は、此が最初で最後だった。
 
 
次の日の夜も、夏彦はいつもの様に天邪鬼に逢いに行ったが、彼女の姿は見当たらなかった。次の夜も、その次の夜も、彼女は現れなかった。それでも夏彦は、彼女に逢いに行き続けた。
そして、夏休みの最後の日の夜に、やっと天邪鬼は現れた。
彼女は甚兵衛と同じ透き徹った水色の浴衣を着てゐた。帯は夜空と同色の濃紺である。いつもの白い裸足には綺麗な塗り下駄を履いてゐた。
夏彦は其の光景を、美しい浮世絵を見る様にじっと眺めた。
「久しぶり。」
そう云って、彼女は微笑んだ。いつもとは違う、これが彼女の「真実」の顔なのだ、と夏彦は思った。
「此が君の云っていた『本当』の『私』だよ。」
「ああ。」
其の美しい浴衣姿を見ていると、天邪鬼がこう切り出した。
「もう、今日限り君とは会えない。」
夏彦は一瞬其の意味を理解出来なかった。いや、理解したくなかったのだ。
「……其れは新しい嘘かい。」
「違うよ……本当だ。」
急速に暗くなっていく天邪鬼の表情。今にも泣き出しそうになる。
と、夏彦は突然彼女を抱き締めた。いきなりの事で驚いたのか、天邪鬼は眼を丸くした。
そして、夏彦は大声でこう云った。
「天邪鬼、君が好きだ!」
夜空に響き渡る夏彦の告白。其れは天の星にまで届きそうだった。天邪鬼は震えた声で云う。
「……人間と妖怪ぢゃ、うまくいかないよ。」
それに、と天邪鬼は話を続ける。
「私は……、妖怪は人間を好きになったら不可ないんだ……、でも、でも……っ!」
ぽろぽろと、綺麗な眼から煌々した滴が零れてきた。天邪鬼は肩を震わせ、しぼりだすように云った。
「……君が、好きなんだ……」
すると、彼女の体がだんだん薄くなり始めた。消えかけている処からは、蛍のような光の粒がふっと躍り出ては空に舞い上がる。
「私は、もう此の世にはゐられない……、人間に恋をしたから……」
「嘘だ、嘘と云って、……天邪鬼」
夏彦は、更にきつく彼女を抱き締めた。しかし、彼女は少しずつ薄くなっていく。
「君と……夏彦と一緒にゐられて良かった。君が……私を好きでゐてくれて良かった……!」
いつの間にか、夏彦の眼からも涙が溢れてゐた。
消え際に、天邪鬼は云った。
「夏彦、……私に名をくれないか。」
「名前……、いいよ。」
夏彦は少し間を置いて、笑顔で答えた。
「君の名前は『マミ』、『真実』と書いて『マミ』だよ。」
彼女は泣きながら笑った。
「ありがとう……良い名だ。」
そう云って、彼女は消えていった。夏彦は、その光を眼で追いつつ、空を見上げた。ぼやけた空にはたくさんの流星の雨が降り注いでゐた。
 
 
翌日、夏彦のクラスに転入生が来た。
白いセーラー服の少女が、先生に連れられて教室に入ってきた。緑を一滴垂らした様な深い黒の短髪。何処かで見た様な其の少女。
「初めまして。僕は天野真実、よろしくな。」
夏彦は、その名前に驚いた。
……天邪鬼……!
二人の恋は、まだ始まったばかりだ。
 
 
 
 
 
 
 
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